ドミニカ移民訴訟
小泉首相 原告代表に直接おわび
1950年代に行なったドミニカ共和国への移住事業により
現地で厳しい生活を強いられた移民者らが国に損害賠償を求めた
「ドミニカ移民訴訟」で
政府は7月21日、これまでの対応を「率直に反省し、おわび申し上げる」
と謝罪し、全移民者に特別一時金を給付するとした首相談話を閣議決定した
これを受け、原告団は東京高裁への控訴を取り下げ、2000年7月の
提訴から6年を経て前面決着する
同日、午後には、小泉首相が首相官邸で、原告団事務局長の
嶽釜徹・ドミニカ日系人協会会長と小市仁司・ドミニカ共和国移住集団
帰国者代表と面会し、直接謝罪の意を伝えた
席上、嶽釜会長は首相談話に対し「全移住者、また他界した同胞を
代表し、心からお礼を申し上げる」と涙ながらに謝意を表明
「移民として(移住)50周年を盛大に迎えられることが、なによりも嬉しい」と
語った
小泉首相は「耐え忍んで頑張ってこられたみなさんの努力があればこそ
(ドミニカにおける)今日の日本の信頼がある」と応じ、移民者のこれまでの
苦労をいたわった
面会終了後、東国対委員長は「長すぎたが本当に良かった。後は
次国会で(特別一時金給付の)法律を作り、50年間の苦労に少しでも
報いさせてもらいたい」と述べた
7月29日
「ドミニカ移住50周年記念祭
『絶望』乗り越え晴れの式典
同国フェルナンデス大統領自らが発案し、大統領府に移住者の代表30人を
招いて「記念式典」が挙行された
1956(昭和31)年の第一次入植以来50年にして初めての催しである
50年前の7月2日、第一次入植者28家族185人を乗せた「ぶらじる丸」が横浜港を出港。赤道を越えるとき、祖国に思いを馳せ、
何度も当時の流行歌「別れの一本杉」を合唱した。
26日後、同国のトルヒーヨ港(現在のサントドミンゴ港)に入港
以後3年間にわたり249家族1319人が入植した
「カリブの楽園」
などの政府の歌い文句に、ほとんどが全財産をはたいての新天地への船出
であった
だが、掘っても掘っても石が出てくるネイバ、塩の吹き出たドベルへ
入植地のほとんどが農耕に適されない荒地。
土地の所有権も認められないありさま
絶望のうちに農奴同然の生活を強いられた人の中には自殺者も出た
移民者が”棄民”へと変わったむごい歴史の始まりだったのだ
やがて、移住者の代表は国の責任と謝罪を求め毎年のように来日する
ようになる。しかし、政府は石のように重い。
移住者と遺族らは、遂に国に32億円の損害賠償を求める訴えを起こす
そして、6年の審理を終えて東京地裁が判決を下したのは2006年6月7日
移住者の調査や説明が不適切だったと、ようやく国の賠償責任は認められた
ところが、請求の権利が認められる20年間(徐斥期間)を過ぎているとして
請求自体は退けられてしまう。
「時効」の壁である。実質的な勝訴なのに・・・
移民側は当然、請求棄却を不満として控訴した
これを受け、小泉首相は、判決が国の移民政策の責任を認めたことを
重く受け止め、救済策の検討を提示
そして、和解案とともに「政府をしては率直に反省、お詫び申し上げます」
との内閣総理大臣談話が発出されるに及び、原告側は和解案を受け入れ
控訴を取り下げるに至ったのである
大統領がねぎらい
記念式典の席上、フェルナンデス大統領は
「ダハボンへの第一陣到着以降、日本移住者は、各地に入植しました。
そして、月日は流れ、ドミニカに地にしっかりと根を張り、さまざまな分野で
活躍、貢献するようになりました」
「日本、ドミニカ両方の血を受け継いだ日系2世が成長し、今や両国の
懸け橋、シンボルとなっています」と想像を絶する困難に勇気と忍耐で
立ち向かい、今、日本人としての誇りを胸に彼の地で生き続ける人々に
賛辞を惜しまず、全員と握手。一人ひとりにねぎらいの言葉をかけ続けた
終了後、原告団長の木村さんが「今の心境は?」と突然、日本のテレビ局
からマイクを向けられた。しばらくの間、声が出ない。
涙が先にほほを伝わっている。そして、
「・・・感無量ですよ。心はカリブの青空です・・・」
(8/11公明)